有紀がニューヨークをたった日の朝、僕はラ・ガーディア空港まで有紀を見送った。
彼女は出発ゲートに入る前に振り返り、手を振りながら僕に何かいった。だけど僕は有紀が何をいっているのかわからず大きな声で聞き返した。すると彼女は「日本で待ってるから。」そういってるように僕には思えた。
それで僕は大きく頷いて手を振った。
有紀は安心したのか満面の笑みを浮かべると、何度も手を振りながらゲートの中に消えていった。
あの時の有紀の笑顔が、ついこの前のことのように何度も浮かんできて僕の心を締め付けた。
ニューヨークも黄昏時になり、家路を急ぐ人達が増えてきはじめた頃、やっと僕はそこから立ち上がることができた。
疲れていた。目の前にある風景も、街の明かりも、車の騒音も、何もかもすべて夢のように感じられた。
その次の日、僕は仕事を休んでもう一度同じ新聞に目を通すために同じ店に出かけた。
それから事故機の搭乗者リストが載っている他の新聞を読むために、あまり近づきたくないと思っていた日本総領事館に行ったが、間違いなく他の新聞にも有紀の名前はあった。
有紀はアメリカを離れる日の朝、僕に電話を掛けてきた。その時に彼女は、日本に帰国したら一度大阪の支社に顔を出さないとならなくなったといっていた。それがいつとはいわなかったけれど、大阪に行くといっていたのは間違いなかった。それがあの事故機に乗っているなんて、僕にはその事実がどうしても信じられなかった。
次の日も、その次の日も、僕は仕事を休んで終日セントラル・パークの芝生の上で過ごした。というよりも何も手につかなかったという方が正しい言い方だろう。見上げるような高いビルばかりに囲まれた空間に閉じ込められていることが、どうしても僕には我慢できなかった。ニューヨークの街は悲しみを癒せるような優しい街ではなかった。張り詰めた精神と、開放して爆発した精神が両極にあって、常にどちらかにスイッチを入れて暮らすことができればいいけど、悲しみを癒すなんて中途半端な情緒でいたら潰される街だと感じた。
だから有紀の死を知って5日目に、僕はニューヨークの街から出てシアトルに向かった。
シアトルにはヨーロッパ滞在中に友達になったキャティーという女友達がいて、僕は彼女を訪ねることにした。キャティーはすでにヨーロッパから帰国していて、何度も遊びに来るように進められていたし、「今のショウにはここはとってもいい場所だと思うから。」という言葉に僕は甘えることにしたのだった。
キャティーの家はシアトルから少し南に下ったタコマという街の郊外、ギグハーバーというところにあった。彼女はユダヤ系のアメリカ人で、父親はタコマの街で開業医をしていて裕福な家庭だった。
キャティーの家族は僕に、我が家同然に自由にしていいからと何度も念をおした。有紀の事故死のことをキャティーにはいっておいたので、それで家族皆が僕に気を使ってくれているようだった。
ただ入り江に面した森に囲まれたこの大きな家に、日中は僕一人きりだったので、落ち込んだ気持ちを癒して冷静さと元気を取り戻すのには理想的な場所だったが、その変わりに一人になって有紀のことを思い出すたびに非常な孤独感に襲われたり、逆に僕はどうしようもなく意固地になったりもしていた。もし僕と知り合うことがなければ、もしかしたら有紀はあのまま幸せな結婚生活を送って、いまでも元気に暮らせていたのではないか。不幸な要因を生んだ一番の当事者は僕で、僕と出会ったことがこんな不幸な結果につながってしまったんじゃないか。そんなことをとめどもなく考えていた。
自分を呪ったり、つまらないことばかり考えながら、僕はキャティーの家で結局3週間過ごしたが、結局僕が出した答えは日本には帰らないということだった。
それまで貫き通してきた意思を曲げてまで帰国しても、決して有紀は喜ばないだろうし、もしかしたらそうすることで自分の将来になんの希望も持てなくなるかもしれないという、自分に対する不安もあった。
そしてなによりも有紀の死を受け入れていない自分がそこにいた。海外で僕が旅を続けている内は、有紀はずっと僕のそばにいてくれる。そんな気持ちに僕はなっていた。
有紀の家に電話をすることも、手紙を書くこともしないことに決めた。それは全てが終わって、自分の気持ちが納得できる状態になってからでもいいと僕は思った。たぶん僕がそうしても有紀はきっと僕を責めないだろうという確信があった。
名残惜しがるキャティーの家族に礼をいって、僕がシアトルからロス・エンジェルスに向かったのは、シアトルに冬の気配を感じ始めた頃だった。
アメリカ合衆国の西海岸の一番北から南に向かうバスの中で、僕は寂しくて寂しくてしかたがなかった。見えてくる風景はいつも目新しいものに違いはなかったけれど、それで感動を覚える自分をもう感じなくなっていた。これから見聞きすることをこれからはいったい誰に伝えればいいのだろうか。カリフォルニアの眩しいばかりの太陽に慣れるまで、一人ぼっちにされた寂しい気持ちはずっと続いた。
「それから僕は2年近くアメリカに居座りました。勿論有紀さんのことを忘れようなんてこれっぽちも思いもしませんでした。それどころか時間が経てばたつほど、彼女に会いたいという気持ちは募るばかりでどうしようもありませんでした。
正直言ってロス・エンジェルスに落ち着いて、何度帰国を考えたかわかりません。何度こちらえ電話をかけようと思ったことか・・・。
だけどそうすることが正直言って怖かった。そうして彼女がいなくなったという現実を目の当たりにしてしまうことが怖かったんです。
だから僕は、遠い国にいて、しばらくの間すべてを忘れようと思いました。有紀さんはその時でも僕の中では生き続けていたんですから。
それに・・・。彼女には申し訳ないけれど、そうしなければ僕にとってのこれから先の人生の行き場さえわからなくなりそうだったからです。」
有紀の母親はずっと黙って僕の話を聞いていたが、手に持っていたコーヒーがすでに冷めていることに気づくと、黙って僕のカップも持って台所にたっていった。
「僕は早く両親を亡くしたのですが、負けず嫌いだったせいか、なんとか自力で大学も卒業することができました。それからは何も疑うこともなく、皆が羨ましがるくらいの一流の会社に就職できて、あとはひたすら働いて勤め上げれば、人生は幸せなんだろう。最初はそう思って頑張っていました。
ところが、サラリーマンになって少しづつ社会が見え初めてくると、僕はすっかり自信をなくしていきました。同じ日本人なのに縦割りの考え方も、当然のように思われている自己犠牲的考え方も、僕には凄く苦痛に感じられ始めたんです。僕だけでなく周りの皆もそれはわかっていても諦めて同調してる。こんな現実が本当に正しいんだろうかって感じ始めたら、あとはどうしようもなく働いていることが空しくなるばかりでした。社会に出てほんの数年で希望を感じなくなってしまったんです。それで会社を辞めるのに後悔はありませんでした。
それから何をしようかって思っていたときに、ある雑誌で地平線まで続く真っ直ぐな道路で、ヒッチハイクをしてる男の写真を見ました。それが何か魅力的で、初めて僕は海外に出たいと思いました。
アメリカだったんですが、物凄く刺激的でした。特に長距離バスで会った中年の夫婦に、バスの中で半日近くアメリカの労働者意識を聞かされたときは、落ち込んでいた僕の心に光が差し込むような感動を受けました。
それからです、僕が将来の自分の居場所を探して世界を歩こうと思い始めたのは。
自分の個性を殺してまで、日本で暮らすことに拘る必要はないのではないかと思えるようになって、やっと僕は生きることが楽になったと感じました。アメリカにもオーストラリアにもヨーロッパにも、違った肌の人種がたくさんいるじゃないですか。たくさんの人の理想やエゴがぶつかって捏ね繰りまわされて、社会があれだけ成長するんだったら、何も変えようとしない日本社会に何の希望があるんだろうと思いました。僕はこの国に対して理想を求めているわけでなかった。自由だ平等だ公平だなんていってても、100年以上も前の身分制度社会の頃の観念を引きずって、いまだにある変な常識を考え直そうとしないことに嫌気がさしたんです。」
僕はそこまで話して、有紀の写真に目をやった。
これから先の話は有紀に聞いてほしいことだった。長い間ほっぽり続けてきた理由を、僕は有紀に対してきちんと話したかった。
もし有紀が生きていて今僕の前に座っていたら、きっとあの写真と同じような、優しくて食い入るような目で僕の話を聞いてくれるだろうとも思った。
「あそこでもし僕が目的を曲げて日本に帰れば、きっと彼女は喜ばないし、逆に悲しむだろうと思いました。
僕は旅をしながら決して安易な方向に走ることはしませんでした。仕事も生活も人一倍努力をしたつもりです。そのことは彼女が一番よく知っています。頼れる人のいない海外で、生き抜いていくためにやってた節制と節約のことは何度も彼女に茶化されていて、たまには遊ぶことも必要だって言われてましたから。
だけどそこまでしないと僕には最後まで意志を貫く自信がなかった。最後まで意志を貫かないと自分の将来に生きる希望も持てないと思っていました。
だから最後まで旅を続けようと思ったんです。彼女はそれをわかってくれると確信してましたから。
ただ・・・。アメリカを出て最後の南米の地まで行き着いて、それまで歩いて来た道を振り返っても、自分をどこで生かそうかって思える場所は思い浮かびませんでした。」
僕にとっては苦い思い出が沢山あるあの頃が、走馬灯のように浮かんできた。
「それからさらに2年。僕は再びイギリスに帰って働き、開放された中国にも入りました。その上無理を承知でオーストラリアにも帰り、以前働いていた会社に無理を言って雇ってもらいました。
だけどなにかが足らない気持ちでした。それに・・・。有紀さんがいなくなったことで、心にぽっかり開いた虚しさと孤独感は、何をしても埋まりませんでした。
オランダにいた時、有紀さんは僕に「私はあなたのお母さんの次にあなたのことを心配していますから。」そういわれたことがあります。あれから僕は、必ずいつかこの人のところに帰ろう、そう思うようになりました。だから彼女の死は、僕にとっての最後のいき場を失うことと同じでした。」
有紀の母親は入れ替えたコーヒーにやっと口をつけて、有紀の写真を見ながら微笑んだ。
「そんなことがあったんですか。有紀は何も話してくれなくて。婚約を破棄したことも理由も告げづ急だったし、あなたのことにしても一切教えてはくれなかったんですよ。
でもね、ご存知かもしれませんが、私たち夫婦は主人の仕事の関係で有紀を連れて長い間海外で暮らしていました。タイから始まって、イギリス、アメリカ、ドイツ、それからオーストラリア。有紀はその殆どの人生を日本ではなく海外で過ごしたんです。だから考え方も欧米人的でした。そのことは私も主人もそれで良かったと思っています。」
有紀の母親はそういって笑いながら僕の顔を見た。
「海外で暮らしながら日本を見ると、色んな国の人達や社会と日本人や日本社会を比べて見ることができるから、この国がよおく見えてくるでしょ。勿論悪いことばかりじゃなくて、この国に生まれたことが誇りに思えることだって沢山あるけれど、それはそれでいいとしても、ただ自分の存在する意味を思ったとき、人はそれぞれに一度しか与えられていない人生なのに、何故日本人って自分の人生を、生活していくため、生きていくためだって。まるで誰かに押し付けられた観念のように思い込んじゃって、仕事優先や変な常識に縛られているんでしょね。もっと大切に考えなければいけないことは沢山あるし、生きることは仕事だけじゃないっていうふうに考えられないのかなって思うわ。勿論仕事に限らず、あまりのもいろんなことで、人が人を苦しめ過ぎていると思う。私達はこれまでそうして欧米の人達に混ざって生活して、それに気づかされたぶん、私達は幸せかなって思うけれど、逆に今をこうしてここで暮らしていると辛くもなるわ。この国がわからなくなることがまだまだしょっちゅうありますからね。だから私達も本当は頑張り屋のあの子には、こんな小さな島国で一生を終えてほしく
はなかったんですよ。
ショウさん。あなたが何を思い、何に失望してこの国を出たのか。私にも理解できます。」
日本に帰国して、僕が何を考えて、何を思ってこの国を飛び出たのか。それをわかると言ってもらえたのは、この3年間で初めてのことだった。
「あの子が、どうしてショウさんに興味を持ったか、やっと私にもわかった気がします。普通の日本人からみれば、きっとあなたは変わり者って呼ばれるような生き方をしてるんでしょうが、有紀からみれば誰よりも真剣に生きている。そう思えたんでしょうね。だってショウさんの生き方って世界中の皆が憧れるような生き方ですもんね。決して自分を甘やかしているわけでもないし。きっと欧米の若い子達よりも、もっと厳しい生き方を選んできたはずでしょうから。今は何もない人だけど、沢山の夢と希望を将来に持てる人だって思って、あなたに賭けてみる気になったんでしょうね。フフフ・・・、あの子らしい・・・。」
そういって有紀の母親は愛おしむような目で有紀の写真を見ていた。
僕はその横顔を見ながら、なんとなく有紀の面影をダブらせていた。
「で、日本にはいつお帰りになったの。」
僕はその顔の向こうに有紀を感じて見とれていたのだけれど、急にそう聞かれてたじろいだ。聞かれるだろうと思っていたことだけれど、納得してもらえる答え方をまだ見つけてなかった。
「はい。実は3年前に帰りました。いなかの方に兄がいるのですが、早く死んだ両親の法要をするのでどうしても帰ってくるよう強く求められまして、これだけはどうしても断ることができなくて、帰ってきました。でも本当は用事が済んだらすぐにオーストラリアに帰る気でいました。とてもじゃないですが、まったく自分に自信がもてなくて、有紀さんの前にも知り合いの誰の前にも出れる気分ではありませんでした。
ところが日本での用事が全て済んで、オーストラリアへの渡航手続きを始めたら、オーストラリアの大使館からビザの発給を受けられなかったんです。ビザのことに関しては、ご存知のように過去渡航歴等で不審な点があった場合難しいことがあって、僕のようにきちんとしたスポンサーを付けている訳ではない人間には、労働ビザの発給を受けるのは非常に難しいうえに、その時は過去の訪問回数、滞在日数が非常に多いということで、観光ビザの発給も敬遠されてしまいました。」
納得してもらえる答えではないだろうと僕は思った。
本当なら、帰国して一番にここに来て、一番に有紀に遅くなったことえの詫びをすべきだろうし、わが子を想い続けているのだったら、なぜそうしなかったかと恨まれても仕方のないことだった。
話しながら、僕は心が痛んだ。
僕はそれから、帰国してからの日本での3年間のことを有紀の母親に話した。
行き先を失った僕は一応それまでの経験を生かして、いなかで専門職には就いたものの、何に対しても目的が持てず、ただ流されるように生きてきたこと。
だから、そんな状況ではとても有紀の墓の前に立って、何も報告する気になれないと思ったこと。
そして、つまらない毎日を送っていたときに偶然訪ねたあの老人ホームでの出来事も話した。
「3ヶ月前になりますが、オーストラリアで働いていた会社から急に仕事の話が舞い込みました。有紀さんとオーストラリアで初めて出会った頃と、日本に帰国する前の1年と少し働いたシドニーの会社なんですが、一番最後に持たせてもらった美術館の新築プロジェツトで相当良い成果を得られまして、その会社のボスに認めてもらえました。実はその仕事では随分意見の対立が会社の上の方とあって厳しい立場だったんですが、結果的に僕の意見が勝てたんです。たぶんその時が海外で働いて感じた最高の充実感だったと思います。
その会社が、2000年の夏季オリンピックに向けて立ち上げるプロジェクトに参加してくれないかと打診してきました。勿論できるだけ早く僕の立場をパーマネント(正社員)扱いにできるよう努めるからという条件でした。
僕にとって初めての大きなチャンスですし、これでやっと自分が渡り歩いてきた世界で必要とされる人間になれたんだと今回思いました。
実は・・・。急な話なんですが、3日後の飛行機で、オーストラリアに向かいます。」
8年間もなにもせずにいて、急に来て、もの凄く自分勝手なことを言っているような気まずさが僕にはあった。たぶん有紀の母親もそれを感じたのか、しばらくの間何も言わなかった。
「そうなの。オーストラリアに行くんですか。有紀が知ったらどう思うでしょうね。でもあの子はショウさんが幸せになれることを一番望んでるでしょうから、たぶんこれでいいんでしょうね・・・。」
そういって寂しそうに頷いた。
「さあ、ショウさんが来てるのに、こんなところで引き止めてたら有紀に怒られてしまうわ。有紀の墓に行きましょうか。ちょっと待ててくださいね。いま準備してきますから。」
有紀の母親は急に気を取り直したように立ち上がると、そういって部屋を出て行った。
僕はしばらくの間立ち上がることができないでいた。急に訪ねてきて全てを理解してもらえるとは勿論思ってもいなかったが、有紀の魂を充分癒せるだけの時間を準備しなかったことには、自分でも痛切に申し訳なさを感じていた。
やっと立ち上がれた時、僕は有紀の写真の前にいき、語りかけた。
「天国から・・・、君は僕がどれだけ君のことを想い、そんななかで何をしてきたか。・・・きっと見ていてくれたよね。有紀。」
有紀の墓は車で20分ばかり走った、横浜市の郊外にある教会内の墓地にあった。
有紀の母親は車を運転しながら、僕があの飛行機事故のことについてどれだけ知っているのか尋ねたが、それ以上のことは話そうとはしなかった。僕も内心あの事故のことについては触れたいとは思っていなかったし、今更あの時の辛かった気持ちを思い起こす気にもなれなかった。そしてそれは有紀の母親も同じだろうと思い、僕は教会に着くまで黙って座っていた。
横浜は外人墓地で有名だけれど、この教会がかかえる墓地にも多くの墓標に外国人の名前が刻まれたものが整然とならんでいた。
その側を歩きながら、僕は場違いな所に来たようで不思議な気持ちになっていた。これから有紀の墓にいくというのに、その実感がなかなか沸いてこなかった。僕は有紀の死に顔を見たわけでもなく、僕にとっての有紀はニューヨークで別れてからもそのまま僕の中で生き続けていることにまだ変わりはなかった。もしかしたらそこの木陰から急に飛び出してきて、思いっきり飛びついてきても、今の僕は決して驚かないだろうと思った。有紀がすでに死んでしまっているという実感がないまま、僕は有紀の母親の後を付いて歩いていた。
広い敷地の中を歩きながら、聞こえてくるのは小鳥の鳴き声と、やっと出始めたセミの鳴き声ばかりで、人っ子ひとりいない墓地は永遠の平静を保っているかのようだった。「明るくて元気だった有紀がこんなところにいるなんて、どう考えても変だよな。」僕は独り言のように呟いていた。
「ショウさん、ここです。有紀はね、いまここで眠っています。」
そういって有紀の母親はひとつの墓石の前で立ち止まると、僕の方に向き直って、そういって視線を落とした。
「有紀。ショウさんですよ。ショウさんがね、帰ってきてくれたのよ・・・。本当によかったわね。」
有紀の母親はそういって墓の前にひざまずくと、涙を拭おうともせずに有紀の墓を優しく撫でた。
僕はそこに刻まれている白浜有紀という字をしばらくボウ然と見下ろしていた。冷たくて四角い石に刻まれた白浜有紀という名前は、新聞に書かれていた白浜有紀と同じように、僕にとっては有紀そのものではなかった。それがその人を指すものであっても、僕にはそれを有紀とダブらせて簡単に理解して受け入れることはできなかった。もしそこに冷たくなって横たわる有紀そのものでもいれば違ったであろうが、文字だけしか存在しない有紀を、僕はしばらくの間、ただ上から眺めているばかりだった。
頭の中を「有紀。有紀。」と呼び続ける自分の声がずうっと回り続けているように聞こえ、有紀の笑っている顔が浮かんでは消え、有紀が僕を呼ぶ声が近づいては遠のいた。
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